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2012年4月22日 (日)

満州で敗戦を迎え、難民となって

04220001 鳥取9条の会の総会・講演会が開かれ参加してきました。(仕事の都合で最後まで参加できなかったのが残念です)

 今回の講演は、阿寒町在住の見田千恵子さんの「旧満州で敗戦~難民となった体験を語る」でした。見田さんは我が家のお向かいで、毎日のように顔を合わせる方です。しかし、こうしたお話を聞く機会はこれまでなかったのですが・・・・本当に胸に突き刺さるお話でした。

■戦没者の数を考える
①第二次大戦になると戦場での兵士の死亡者数を民間の死亡者が上回るようになります。

Img_0001  第一次大戦 兵士の死亡802万人、民間人の死亡644万人、合計1460万人
 第二次大戦 兵士の死亡2357万人、民間人の死亡3116万人、合計5473万人
 第一次大戦の3.75倍の死者が生まれていることに、戦争のむごさを感じます。
第三次大戦が勃発したら・・・それは核戦争です。人類は生き残れないかもしれません。

②中国の民間人の死者は第二次世界大戦で1000万人です。この多くは日本兵によって殺されたことになります。日本は加害責任を免れることはできません。

■少女時代
①見田さんは1933年(昭和8年)樺太で生まれました。両親は郵便局で働いていましたが、組合活動などのこともあって解雇されます。そのため一家で満州に行くことを決意します。

 見田さんが生まれる2年前柳条湖事件が起きます。日露戦争で既に日本は南満州地域の鉄道経営権を獲得しており、1932年には満州国が建国されていました。

②見田さんは満州国の首都の新京近くの公主嶺というところに住んでいました。軍都だったようです。国民学校のトイレは水洗トイレ、大変恵まれた環境でした。国民学校では、皇国史観、大東亜共栄圏の教育が徹底されており、見田さんもその影響を強く受けていました。意気揚々と太平洋戦争の開戦を迎えたそうですが、両親はそうではなかったようです。組合活動を通して、社会を見通す目があったのでしょう。

04220002 ③見田さんが、「なにかおかしいのでは」と感じ始めたのは、女学校へ通い始めるころです。新京までの汽車通なのですが、見田さんたちは2等車、中国人や朝鮮人は安い3等車に乗ります。国の政策で、日本人と中国人の居住区域が分けられ、見田さんは「五族共和」を信じきっていて、日本はアジアの人たちを解放する、アジアみんなが豊になると信じ切っていました。しかし、実際に目にした中国の人たちは貧しく、汚くお風呂にもほとんどはいれない姿でした。
 決して平等でも互恵でもなく、いい思いをしているのは日本人だけでした。

■敗戦
①敗戦の前年頃から、陸軍の官舎からはどんどん兵士がいなくなっていきます。精鋭部隊は南方に転戦。現地召集もうなぎのぼり。すでに、満州は見捨てる陣形となっていました。

②敗戦の直前。ソ連が参戦し満州は大混乱になります。役所から朝鮮に避難するよう指示が出ます。
 8/14、朝鮮に逃げる途中で捕虜になってはならないと、青酸カリと手榴弾が渡されます。軍部は満州にいる日本人を助ける手だては何も取らないのに、死ぬ準備だけは周到にしてくれたということでしょう。

 見田さんの家では、父親が「朝鮮に逃げたって同じだ。一家自決する。」と言い始めます。母親が激しく抗議しますが、見田さんは賛成します。しかし、家の中で拳銃を見つけてから、気が動転します。
 父親はまずこの拳銃で幼い弟を殺すだろう。それを見て、私は冷静でいられるか。
「母さん、殺すなら私を一番最初に殺して。」
母親は「あなた一人でも朝鮮に逃げなさい。」
 こうしたなかで8/15を迎えます。死ななくていい、助かった。・・・そう思ったそうです。

Img_0002 ③しかし、その後の生活は凄惨そのものです。
 中国人の暴動が始まり、最初は軍隊の倉庫、そして民家に押し入り、金目のものは全部持っていかれました。見田さんは非常用リュックをしょって、ふすまの陰に隠れていたそうですが、日本人なんかに目をやるひまなんかないと言わんばかり、暴徒となった中国人たちは、ふすまや畳すら持っていってしまったのです。

 被害を免れた旅館の2階に日本人は集まり、そこが避難所となりました。最初は中国の人民政府からコーリャン、岩塩、梅干、醤油などの配給がありましたが全く足りません。どんどん栄養失調が広がり、不衛生のため病気が蔓延します。女学校で級長をしていた友人はチフスで亡くなります。脳症も発症し、突然「宮城(きゅうじょう)遥拝」などと叫んでいました。
 大人たちが墓地に大きな穴を掘ります。亡くなった人はそこに投げ込まれるだけ、土をかけることもできません。凍ってしまう遺体、野犬が遺体に群がるかも・・・。あとのことは考えられないという感じでした。

④父親たちは隣町で電話の増設工事があるからと、泊りがけで働きに行きます。でも予定が終っても帰ってきません。そこに、父親の死亡の知らせが届きます。匪賊に襲われたというのです。匪賊は雑多です。食いぱぐれって盗賊稼業となった者もおりましたが、なかには抵抗運動と深くつながった者たちもいました。
 少なくとも、戦争にもろ手をあげては賛成していなかったはずの父親が、匪賊によって殺害された。不思議と悲しさはこみ上げてはこなかったそうです。それだけ、気持ちも普通ではなかったのでしょう。
 見田さんは、よその国の土地に勝手に国をつくって・・・その結果がこれなのかと思ったそうです。

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